不寛容について
NHKで不寛容についての番組があった。
以前から、mixiやらYouTubeやらで、理解できないような、人間性を疑うような書き込みがあって、
疑問視していたのだが、やはり、世の中の人もそういうことは変だよね、ということを言いたいん
だなあということが理解できた。
以下に、番組でのキーワード、プラス、自分の気持ちを補足しながら文字を書いてみる。
熊本が大変な時に不謹慎だと思わないんですか。という書き込みが多いというもの。
確かに地震で熊本は大変なのだが、熊本が地震になったからといって、東北の地震の被害が薄れた
わけでもないし、阪神淡路震災の被害が薄れたわけでもない。
ただ、今、最新の震災が熊本だというだけで、過剰反応しているだけのような気がしていて、
さすがに、正義を振りかざすのも、いい加減にしろ!と思う。
じゃあ、IS(Islamic State in Iraq and the Levant)の被害にあっている人とか難民になっている人
は、もっとものすごいことになっているんだから、熊本よりもそっちの方が大変だよね。
で、そういうふうに区別していくと、地球上では区別できないし、キリがないので、
そんなこと言うのをやめようよ、と私は思うのである。
虫のノートが廃止になるという話題。
虫が気持ち悪いというのは勝手である。しかし、虫が好きな人の選択肢を奪うというのは、
どうだろうか?その両者を両立できないのが不寛容なのではないか?
個性を出せなくなる世の中になっていく。
本音を書くと寛容力のない人々からこてんぱんにされる。 クリエイチビティー 創造性が犠牲になる。 「お前の意見が間違っている」と「お前は意見を言うな」は別。 過剰反応社会。 一部の極端に不寛容な人が行動してしまう。それによる弊害。 萎縮するから同調圧力が強くなる。 自分が間違っているとは思っていなくて、正義感をぶつけている人が大半。 自分の中で義務感が大きくなっていく。 正義感というより、「承認欲求」自分がここにいること 私は誰かを動かし、誰かに影響を与えている自分がいる。それを確認するツールとして、ネットは非常に有効。 攻撃を仕掛けている人の中では、英雄視される。 ほとんど罪の意識なく、自分が英雄になりたいんだという理由だけでアップしている。 英雄になるとか正義感とかで相手を攻撃してもいいなんていう理由は、さすがに身勝手だと思う。 自分が間違っていないと判断するのは、自分の価値観で判断しているのであって、 他人の立場に立って考えているのだろうか? 教科書的な判断で、万人、一般人としては、この回答が正解だ!みたいな一方的な判断で攻撃している ような気がして、多面的な判断ができないように思う。
攻撃的メッセージを送って、相手が反応する。
自分の意見に対して心を動かしたと確信が得られると、より、その行為は楽しくなってエスカレートする。非常に中毒性が高い。
この時に脳内では、とても大量のドーパミン(神経伝達物質)が出る。
脳の中には、正義感と良心を感じる領域がある。
自分の行為を自分でモニターして、自分の行動が正しかったと判断すると、ドーパミンが出る。
多くの人が、「こんなはずじゃなかった」とか「報われない社会」という感じを持っている。
誰もが欲求不満状態にさせられちゃっている。
自分の欲求不満のはけ口を常に探していて、あるネットの書き込みを見て、あれは間違った思想だと
判断すると、自分は正義を言っているのだから攻撃してもいい、みたいな免罪符のようなものを得た
ように勘違いし、はけ口のひとつの方法として使っているように思う。
さすがに、間違った解釈をしている人が世の中には多い。
新しいメディアは加速する。ネットは、プラスにもマイナスにも。
ヴォルテールの名言。これは、感動した。
私はあなたの意見には反対だ。だが、あなたそれを主張する権利は命がけでまもる。
なぜ、議論が成立しないのか?ひとことで言うと、司会がいないから。
特に、ツイッターなんかは言ったら、言い放し。
議論もクソもない。
「青シャツ」「黄シャツ」無作為に選んでグルーピングし4週間過ごす。
相手のグループをさげすんだ目で見る。
自分のグループを過剰に高く評価。
これは、大変興味深い研究。会社の組織とか、何かのグループというのは無作為に選ばれた
わけではなく、何かの理由で選んでいるので、上記のグループよりも自分の属している組織は、
優秀である、あいつよりは上である、優位性を主張したくなる要素が多いと思う。
人間は、そもそもそういう生き物なんだなあと考えさせられる。
同質性をどんどん強める方向に行ってしまうので、同質性を乱すヤツが悪になる。
隣の人と同じじゃないと異質なものと判断する。
いつも話題にするのだが、徳川家康が江戸幕府を開いて鎖国した。
そういう流れで、外から来るものは悪である、という考えが日本人のどこかにあるように感じる。
外から来るものは悪の場合もあるが、必ずしも悪でない場合もある。
それは、その都度、個人が判断すべき内容なんじゃないかなあと思う。
自分と違う意見を受け入れるか、受け入れないかという能力は、
前頭前皮質背外側部の厚さで決まる。
厚い人は、成熟した脳。
私は、薄いような気がする。
「空気を読め」とうのは読んだ後に従えということだけど、読んだ後に従うこともあれば、まったく違うこともある。
これも、徳川家康の話に近いと思う。みんなと同じにしろという意味で使っている言葉のように思う。
分かりあえないことを憎むのではなくて、分かりあえないことを分かりあう。
まったく別の考えを持っているのは、けしからん。というのが根本にあるんじゃないかと思う。
まったく別の人間なんだから、まったく別の考えを持って当然だよね。と思う。
言論の自由。表現の自由。思想の自由。行動の自由があるんだけど、どこかで制限したくなる雰囲気
があるように思う。
おまけで 絶歌 の感想
まず、加害者にも人権があるという話。
同じ人間である以上、加害者も被害者も同じ人権であることは当然。
もうひとつは、自分の子どもが加害者になることの想像力が完全に欠落している。
極めて限定的で被害者の気持ちだけを代弁する。
しかし、そうした場面では被害者を思いやる「やさしさ・かわいそうだという感情」だけが、優先されて、それ以外の思考を停止してしまう。それは「やさしさ・被害者を保護する」という感情に高い価値があると信じているからなんですが、さすがに、これは正しいことなのでしょうか?
私は疑問に思う。
で、絶歌の本の話。
正直、ストレートに結論を言うと、大変つまらない本です。
買う価値はありません。
読みたい人は、図書館で借りてください。
簡単にストーリーを書きます。
前半は、過去の自分がやった犯罪を詳細に説明している。
淳君を殺す前に、猫を殺害したりしていたことを書いている。
この部分は、ものすごい難しい言葉・表現を使い、さすがに、
自分の犯罪行為に、酔っ払っているなと感じます。
自分は、こんな犯罪を犯した。
だけど、自分のした事は美しいかった、みたいに正当化しようとしているかの
ように感じます。
自分がこの異常な犯罪を犯した主原因は、よくわからないと語っています。
私はゲーム感覚で、その自分が仕掛けたゲームを世の中の人が、解き明かそうとして、
その行為をおもしろがっていたのかなあと推測しますが、原因は不明ということを
貫いていて、何か考えられる原因があるかも知れないという心理状態ではないと考えます。
さらなに、文字が難しくて読むのが大変です。
読む速度が遅くなる。
で、後半は、刑務所から出てきて、いろいろな職業を転々とする話。
ここでは、難しい言葉は使わず、通常表現というか、かなりあっさりした文章。
なので、前半と後半は、まったく別の人間が書いたのではないか?と疑いたくなります。
正直、ゴーストライターが書いたんじゃないかな?と思っています。
で、最後の10ページくらいは、淳君や遺族へ向けての謝り文章です。
相変わらず、自分の犯罪の主原因は不明と言い張っていて、なぜかわからないけれど、
犯罪を起こしたと言っています。
そして、遺族に対しての謝罪の文章がくどい。
本当に申し訳ないとか、僕がやった犯罪は許されることはないので、謝ってもあやまりきれない
とか、そういう同じような文章の繰り返しが20回くらいある。(ちゃんと数えていないが)
さすがに、同じ文章の繰り返しは、飽きる。
過去に、少年Aの親の手紙という感じの文章がマスコミ経由で世の中に出回っていて、
その文章を読んだことがあるが、その文章とまったく同じ。
少年Aの親も、大変申し訳ないという言葉を、飽きるほど繰り返し、事件の本質に触れようとして
いなかった。
あの親が育てたのなら、その子どもも同じようになるよね、と納得してしまう文章である。
少年Aの絶歌が出版された時、柳田邦夫は、出版に反対する遺族の気持ちは理解できるが、
このような重大な犯罪を行った犯人の心理状態を知る貴重な資料であるので、今後の研究などに
活用すべきであり、一般にもぜひ読んで欲しい、みたいなコメントをテレビで言っていたと思う。
この柳田邦夫のコメントは、その通りだと思って聞いていたのだが、実際に絶歌を読むと、
まったく参考にならないということに気づく。
上記に示したように、まったく内容がなく、つまらなく、くだらない内容だからだ。
この本に期待し、新品を定価で買った人は、お金をドブに捨てたようなものだと思う。
さすがに、がっかりし、もう二度と犯罪も繰り返すことをするな!というのと、
このようなくだらない本を出版するな!という怒りもこみ上げてきた。
読む価値は、まったくない。
大岡昇平「野火」
コンテンツが混乱してきた。混乱ついでに、違う内容なのだが、ここに無理矢理
突っ込んでしまう。
大岡昇平 「野火」という名著がある。
作家の名前も本の名前も知らなかった。
もともと文章を書くということは得意だったのだろうけれど、
この人は、地獄を経験してきたゆえに、
このような素晴らしい文章を書くに至ったと思う。
優秀な作家というのは、その文章を読むと自然に心が揺れる。
要するに自動的に感動する。
このような作家は学校の教科書に載せるべきだと思う。
子どもの頃に触れていたら、価値観とかいろいろな面で影響されていたと思う。
出会うのが遅かったという残念な気持ちでいっぱいである。
まず冒頭の部分。
私は頬を打たれた。
分隊長は早口に、ほぼ次のように言った。
バカやろ。帰れって言われて黙って帰って来る奴があるか。
帰るところがありませんって、がんばるんだよ。
そうすりゃ病院でもなんとかしてくれるんだ。
中隊にやあ、お前みてえな肺病やみを飼っとく余裕はねえ。
病院へ帰れ。入れてくんなかったら、幾日でも坐り込むんだよ。
まさか、ほっときもしねえだろう。
どうでも入れてくんなかったら、死ぬんだよ。
手榴弾は無駄に受領してるんじゃねえぞ。
私は喋るにつれ、濡れて来る相手の唇を見続けた。
致命的な宣言を受けるのは私であるのに、
何故、彼がこれほど
激昂げきこうしなければならないのかは不明であるが、
多分声を高めると共に、感情をつのらせる
軍人の習性によるものであろう。
ある会社に転職したのだが、そこは、クソと表現するくらい腐っていた。
この小説の”致命的な宣言を受けるのは私であるのに、
何故、彼がこれほど
激昂げきこうしなければならないのかは不明であるが、
多分声を高めると共に、感情をつのらせる
軍人の習性によるものであろう。”
の部分に深く共感する。
この職場では、汚い言葉でどなる。個人を徹底的に批判しおとしめる。
精神的に再起できないくらいに破壊し尽くす。
破壊された人が、どんな被害・損害を受けたのか?は何も感じない。
よくわからない理論を振りかざし、相手を徹底的にうちのめす。
職場の長もやるし、部長もやるし、その組織全体の最高トップの長もやる。
こちらが冷静に対処し、客観的な事実を言えば言うほど熱が上がり、
手に負えない。
まともな会話ができない。
大岡昇平 「野火」とまったく同じ。
このような日本を代表する大企業が存在すること自体おかしいと思います。
彼らは、自分自身を正義と信じて生きているし、今後も継続して行くと思います。
このため、いつもいつも、社員募集の広告を出し続け、途切れることがない
というのも納得するのですが、
個人的には、私を含め、会社を終われ、職を失った大勢の人のためも含めて、
ぶっ殺すリストに載せていただきたいという気持ちであります。