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独り言のページ09
何かに対して、文句というか世の中の矛盾みたいなものを単に書いていこうかなと。
mixiの日記には、かなり偏った内容も書いていて、あれが本音なのですが、こっちにも書いてみたいなあと思いました。
どこに書いてもタダなので、徒然なるままにという感じです。
独り言のページを始めたのが、2018年7月。まず、生きている事、世の中の矛盾というか理不尽というか何でこうなっているのだろうか?
生きて行くことに抵抗感があり、中途半端じゃなくて本気で悩んでいるので書いてみます。



2019年03月23日(土)(Sat.)
今日、お台場へD1グランプリを見に行った。熊久保さんとノムケンが来ていた。ゲストとしてなのだが、その理由は去年のノムケンの引退試合に、熊久保さんとノムケンが追走やってノムケンのスカイラインがエンジントラブルで動かなくなった。たぶんあの件で、ファンサービスのために2人を呼んで、再度勝負してもらおうということだろうと思う。勝負は勝負で面白かったのだが、熊久保さんが興味深い事を言った。自分の車は大昔のチームオレンジの車である。ストレートはまあ良いが、ドリフトに入るとパワー不足で角度がつかない。戻ってしまう。コーナーリング速度が遅い。などと言い、今の大馬力の車には、乗れないし制御できない。というような事を言っていた。確かに今は700馬力800馬力900馬力当たり前なので、ドリフト中のタイヤがアスファルトをかき出し前進していく力は天と地の差だと思う。それを聞いて初心に戻った私は、D1グランプリ始まった当初の土屋圭一氏の言葉を思い出した。車検通る車だけで戦う。確かに車検をクリアした車と言っていた。見ていて白煙が出れば盛り上がるのは当たり前なんですが、900馬力1000馬力と青天井になってしまっていて、通常の試合であれば使うタイヤの制限があるくらいかなあ?1日何本以上使ってはいけない。1試合に何本交換してはいけない。みたいなルールがある。いっそのこと初心に帰って、車のスペックは車検通らなければダメとした場合、パワーがない分テクニックで補わなければいけない。そのテクニックの見せどころが、新しい見どころになるんじゃないかなあ?非力だからこそテクニックを磨く。WRCが昔はそうだったでしょ。グループBが過激すぎて禁止になって、グループAに変更され大人しくなった。逆に迫力がないという理由で、WRカー仕様が作られ1600ccのターボ車であり、ボディーも大がかりに改造可能となった。いやあ実はね、俺グループAの時代ってけっこう好きなんですよ。セリカのST205とランチャデルタの戦い。パワー勝負ではない、チーム運営力とかメカニックの技術力とか、非力だからドライバーのキラリと光るテクニックが重要なポイントになる。マシン性能は極端に差がないから、毎回誰が優勝してもおかしくなかった。下剋上もあり、年間で混戦模様になっていくのがファンとしては見ていて激楽しかった。なので、パワーがなければないなりに、ファンは別の角度から見て楽しむから、非力がダメというのは正解じゃないように思う。

2019年04月02日(火) (Tue.)
なんとなく感じてはいたけれど、認めたくないという気持ちもあって、整理できていなかったんですが、今日気づきました。そもそも前から酒は大嫌いだったんですね。今もキライです。吐き気はするし頭痛はするし、二日酔いというのも経験したし、何ひとつ良い事はなかった。たぶん今後も良いことはない。子どもの頃オヤジが酒を飲まないので職場で浮いてしまう。だから職場のメンバーを誘ってイヤなんだけど飲みに行くと言うグチを家族の前で言っていた。子ども心に酒ってなんか魔力のある変なものだなあと思っていた。で、自分が社会人になって、酒の習慣が目の前に迫ってきて、イヤな思いとかいろいろするわけです。俺の酒が飲めないのか?と言ってついで来る人っていますよね。それ、あんたの酒じゃなくて、俺会費払っているからね。と本気で思うんです。で名前は言いませんが、人生で最高に強烈だったひとことを書きます。お酒を飲むのは、昔の人が決めたから。と言う人がいるんです。この言葉信じられますか?昔の人が決めた?って?はあ?と思いますよね。こういう言葉を平気で言うんですね。もう、その事自体がもう別世界で、信じられないんですよ。で、俺は自分の理論を信じ、酒は飲めなくても飲み会に参加しなくても、マジメにコツコツと仕事をしていれば、周りや上司は認めてくれるに決まっている。酒の場に行かないから、職場の仲間と認めないとか仲良くしないとかあり得ないと信じていた。しかし、この50年以上経過しこの答えが出た。ここで名前を出しますが、一部上場企業にいた時、上司だった有野さんに有野さんが定年後、駅前で会うようになり、いろいろ話をすると、お酒が好きで上司や仲間と飲んでいたそうです。基本はエンジニアなので、たぶん営業的な事が苦手だったと思うのだが、酒の席でグチや相談をする。上司などに気持ちを伝える。そういう事があったと語っている。俺は会社の外でしかも残業時間に飲み屋で相談するなんて邪道だと思っているわけです。そういうことが仮にあったとしても、俺は認めない。そんな風潮に便乗しない。と決意をしていたわけでありますが、有野さんを見ていると、酒の席でなんとか救われた部分もあるのかなあ。と思えてくる。だからと言って、今から酒を飲めるはずもなく、人生下降線をたどるだけであるというのは変わりはありません。だとしたら、最初から苦労とかしたくないので、酒を飲まない宣言をし、酒の席で相談しない宣言をしたうえで、職場の中で会話をしていった方が良かったのではないか?なんとなく飲めないんです的な中途半端が一番良くない。さらに言えば、酒を飲まないので、出世もしないし、別に何も望みません。だけど、平和に定年までいさせてください。ここまで言い切るくらいの言葉が欲しかったなあと本気で後悔する。そこまでストレートに出すと相手も出方を考えると思う。日本人的にじめじめした関係だから、俺は失敗したんだなあと思う。それと、酒を飲む人はたぶん成功する。飲まない人でも他の能力スキルが高い人は、出世するし成功すると思う。おれは、どちらの能力もないから、この日本のクソ文化の中で生きていけなかったのだ。だったら、俺のオヤジもそうストレートに言って欲しかった。まあ、あんな感じで周辺の空気を読む感ゼロで鈍感なので、他人にアドバイスなんかしねーし。オヤジはお前のためを思って、なになにをしてあげた。とか、なになにを助言した。助けてあげた的な言葉を多数発するが、それは俺のためになってはいない。単なる表面的な助言をしているだけ。助言ならまだしも、自分の考えを押し付ける自己満足なんだよねえ。ただのおおきなお世話だった。効果のないただの形式的な儀式のようなものであったんだろうなあと考える。それを言うとなんたが自己満足に浸れる。その自己満足感で達成感があり、その先の息子の行く方向なんて何も考えてはない。息子のためと言いながら実は自分のためであった。そしてオヤジは、今もそれを知らない知ろうとしない。何も考えていない。感じていない。なんかこういう型にはまらないと受け入れてくれないというのは、俺にはハードルが高すぎるんだよね。

2019年04月06日(土) (Sat.)
以前書いたかも知れないんだけど、子どもの頃から悩んでいたのを思い出したので書きます。初対面の人と会うとき、当然、敬語とか丁寧語を使いますよね。相手の年齢が上だったり、身分が上の人例えばお客さんとか、いろいろな人がいますよね。最初は敬語なんだけど、徐々に打ち解けてきたら敬語じゃなくて、タメ口に近づいて行きますよね。相手が仲良くしたいと思うとどんどん変化していくと思うんです。自分もその方向へ行くのはイヤじゃないのだけれど、どの程度くだけて良いのか?その加減がわからないんです。子どもの頃から今になっても、なお。現在進行形です。もうこの歳なのでいい加減悩むのをやめにしたいと思っています。基本、敬語を使うことはいいことですよね。悪い事ではないはずなんです。だけど敬語をずっと使い続ける人を否定的に言ったり、悪いことのように言う人もいますよね。でも、いつまでも下にいるつもりで、下にいれば基本相手が上なんだからいいじゃないですか。でも口調が砕けていかないとダメだ、みたいな風潮ってありますよね。そんな能力持ってないので、放っておいて欲しいんですね。いつまでも敬語で距離を長くとってもいいじゃないですか。下手に近づいて失敗するより、距離を置いていつまでも遠目で見ていることでいいじゃないですか。遠目で見ているのは悪なんですかね。逆に超慣れ慣れしくて、他人の懐に土足でどんどん踏み込んでくるヤツっていますよね。憎めないし、ちゃらちゃらしていて、まあガキっぽいんだけど、悪気があるわけじゃないので、許してしまう。みたいな人っていますよね。他人の懐にグイグイ入ってくるよりも、遠くから監視している人の方がいいと思いませんか。監視しながらその特徴をとらえて、自分の居場所であるか?否か?考えているのもダメですか?考えちゃダメなんですかね?接近戦で火傷するかも知れませんよね。だから火傷しない程度の距離を取るってありですよね。距離感をつかむ能力がないだけなんですから、そんなに批判したり、文句言ったりイジメないでよ。どうして良いのか?が分からないので、ただ右往左往するだけだからやめてくれ。あんたに危害を加えないから放っておいて。何度も言っているが、不寛容の時代なので、ちょっとしたことで文句言いたくなる時代なんですわ。ボクは争いたくないので、言うという選択をするより、沈黙の方がいいんです。沈黙って何も攻撃していませんよね。プラスでもマイナスでもない。でも、その沈黙でさえも文句を言ったり、批判したり。何ですかね?この世の中のルールって何?ルールおかしいと思いませんか。世の中ってもっと自由のはずなんだけどなあ。職業選択の自由、表現の自由、趣味の自由、どんなふうに生きるのかも自由。この世の中のルールが自分に合わないなあと感じる自由。そしてここで、美輪明宏さんの人間関係腹六分の書き起こしを基本に追加で書いていきます。人づきあいは腹六分目。キュウシ?にまじわれば青き虹のごとし?ってね。だから三島由紀夫さんが、お亡くなりになる前に私の楽屋にみえて。最後のお別れにね、いらして、その時にね、なぜ18年もお付き合い願えたんでしょうかね、って言ったらね。僕が嫌いな人間は、膝の上に上がってきたから頭を撫でてやったら、いい気になって肩まで登ってくる。ほっといたら頭の上まで登って、顔までナメ出すヤツがいる。おれはそういうヤツは大嫌いだから。君にはそういうところがなかったからね、って言われたんですね。私もそういうのはね。本当に大嫌いですから。だからね、私は結婚式でも祝辞頼まれた時にね、いい旦那さんいい奥さんになってくださいって、みなさんおっしゃるじゃないですか。でも、そんなものになる必要はないって言うんです。いい旦那とかいい奥さんとは、いい母親、いい子どもになろうとすると、家から出ても、例えば仕事場でも、いい上司であろう、いい同僚であろう、いい部下であろうとゴマをすってみたり、上から押さえつける、いろいろ小細工するじゃありませんか。駆け引き。そういうものよりも、いい人間同士でいましょうね。それを心掛けていればいいです。そうでしょ、妻とか夫とかは単に記号ですよ。元は何です?人間でしょ?仕事場でも課長だとか社長だとか、部長だとかそういうふうに思わないでね。足の引っ張り合いもないし、威張る必要もへこませる必要もないから、いい人間同士でこの短い人生の時を一緒にお仕事しましょうね。いい人間同士でいましょうとしていれば、うまく行くんですよ。人はゴミ箱じゃないんですよ。だからね、水くさくない人ってどんな人かって言ったら、自分にとって便利な人なんですよ。悩みも聞いてくれる、お金も何かあったら貸してくれる、都合もやってくれる。もうとにかくいろんなウサや何かも全部聞いてくれる、相談ごとにも乗ってくれる。自分に都合のいい人を水くさくない、いい人なんですよ。だから親友って何をもって親友かって言うと、だからそういう言葉が出て来るんですよ。そうれじゃあ、あなた人をゴミ箱だと思ってんでしょ?って言ったの。だからね、心意気が必要なんですよ。決して人さまには迷惑かけません。自分の始末は自分で責任取ります、っていうね。つまり、キリッとしたその自分自身に対する意気地ですよね。プライド。だから、それがあればね、お互いに気遣いがあるわけですよ。そうしたら、その人が困っているなと思ったら、ああお手伝いしましょうか、って言ってあげる。じゃあお願いします。それがかっこいいじゃありませんか。だから思いやりの心を持ちながら、夫であっても妻であっても、やっぱりね、ズカズカと土足で踏み入れられたくない部分って誰でも持っているんですよ。ちょっと、どうしたどうした!!って言ってね、下手なホームドラマみたいにね、近所のジジイやバアアまでがね、そこの家の息子の夫婦は恋愛したとか、会社で何かあったら、もう土足でどんどん踏み込む、ああいうくだらないホームドラマは大嫌いなんですよ。余計なお世話だった言うんですよね。そうでしょ。だから困っていれば助けてあげるね、思いやりを持って、それで自分自身はなるべく人さまには迷惑をかけないって、それがやっぱり自分自身のプライドで、悔いのない人生を送る事ができるじゃありませんませんか。そうすると争いも人殺しも起きないんですよ。だって、腹十分くらいでやるから自分の持ち物だと思っちゃうんですもの。相手のお友達、子どもでも。自分の子どもだって持ち物だと思ってるから。だから夫でも妻でも、だからアンタナントカ、コウコウコウで、まったくだらしがないわね。万年課長でさあ、そういう事言っちゃいけないんですよ人に向かって、そうでしょ。誰だって好きや好んで才能がないわけじゃないんだから。

2019年04月07日(日)(Sun.)
書くのは自由でタダなので、バンバン書きます。以前に書いたかも知れませんが、その時は反芻しているんだなあと思ってください。今回の内容は2点。1点目は、仕事で障害や困難に遭遇した時、以前いた一部上場IT企業では、1980年代1990年代は、自社の開発部門がいてその部隊に聞くことにより、新商品の知識とか障害対応の知識とか、こういう設定をしてはダメとか、注意事項を聞けた。開発部門の人は良い人が多かった。ハード系の人もソフト系の人もも親切教えてくれた。そのおかげもあって、客先で技術的説明する時も全然恐怖感はなかった。現場で現地調整や対向試験の時などでトラブルが起きても、開発から伝授されている技術を駆使し、どうしてもダメな時は、現場から開発に電話もできる。障害対策会議とかやって、困難な時は開発の人も現場に来てくれる時もある。そうやってノウハウを蓄積して、ああ自分は技術力を高めて、何で対応できるぜ。と思っていた。開発のおかげだったのかも知れない。今の時代、自社で開発する機器なんてあまりない。中国とか安い製品を作っているので、OEMとか自社の名前のシールを貼るなど、どんどん安価なものに変わってきた。その安価なものは、世界標準というんですかね。デファクトスタンダードのCiscoが作ったものが世界に拡散しているわけで、世界中のITエンジニアが情報収集してネットワークを構築していく。なので、技術的には自社のものじゃないし、世界共通なのである意味、世界語である英語を話すことができないと仕事ができません。というのに似ている。なので、自分が入社した頃のIT技術というものは、大きく変わってきていて、もう30年も経過したんだよねえ。自分のオヤジの時代は、入社した時の技術をそのまま継続し多少進化したかも知れないが、枯れた技術でなんとか定年まで食いつないで来た感はあると思う。今の時代は進化のスピードが速いので、乗り遅れたらもう次の電車は来ない。みたいな状況に陥る。非常に寂しいというか悲しいというか現実は厳しいです。で次の話題。仕事の内容が難しいから悩むというより人間相手で悩むことが多いです。悩んだ時いつも自分に言い聞かせる言葉がある。自分は自分でできる範囲内のことしかできない。ものすごく天才とか優秀であれば良いが、そうではないので、頑張ったところで範囲は爆発的に広がるわけではない。自分は自分のできることしかできない。自分のできる範囲でコツコツとマジメに積み重ねて行くしかない。一気にジャンプすることはできないので、自分の目の前に与えられたひとつひとつのタスクをこなして行くしかない。俺がものすごく優秀であったなら、一部上場企業に今でもいたと思うし、定年までいて退職金もたさくんもらえているはず。優秀なら今こんなことしていないよね。と思う。優秀じゃないので、目先の自分のできることをコツコツやるしかない。このように考えるのは人生論として間違っていないはずなんだけど、世の中には批判する人が多い。仕事やる気がないとか、他人の悪口をいうヤツ多いですわ。事実に忠実に現象だけを取りあげて、指摘するならまだ良い。そこに感情が入るんですね。ネットの誹謗中傷のコメントも感情が入って炎上とかしますよね。今目の前で起きている、現実を見る。現実を直視する。起きている事を分析し、あくまでもドライな感情で内容を精査する人ってあまり多くいないように思う。なので事実が感情でねじ曲げられて、いつの間にか悪人にされてしまう。気が付いたら自分の周りが炎に包まれていた。というのはよくある。そうやって他人をおとしめようとするのはやめようよ。目の前の現象をとらえて、事実だけをドライに観察してくれ。その見方をしてくれれば、いつでもどこの職場でも俺は間違ったことはやっていないと断言できる。変なふうに感情でねじ曲げられた情報で、また、それが周りの人が信じてしまって、どんどん拡大していく。さすがに息苦しくて生きにくくてどうにもならない。今の日本は狂っているなあと言わざるを得ない。再度バブルが来るはずもなく、この不況が継続していくだろうから、この変な価値観が今後の日本を作っていくんだろうなあと思う。正義と悪という議論はなくて、勝てば官軍の理論でやったもん勝ち。負けたら地獄という2局化していくのだろうと思う。そして俺のように人生負け犬になった連中は排除されていく。今後の日本に居場所がなくなるような不安感しかない。不安を感じずにはいられない。このつまらん世界をどう生きて行くのか?五里霧中っていう感じかなあ。

2019年04月08日(月)(Mon.)
ちょっと毛色の変わった話題。私はギターをやっていまして、コードしか弾けないのですが、怖いもの知らずでYouTubeにもUPしています。自分で言うのもなんなんですが、自分の士気高揚にうまく使っています。詳しくは別のページに書いてあるからそのページへ飛んで欲しいというのと、もしチャンスがあれば、このページの中でも書くかも知れません。で、今回は、あるYouTubeにギター教室みたいな感じなんですかね?ギターを教える的な動画を見ていて、やっぱこの人も俺と同じ事を感じているし、まったく同じであるので俺は間違っていなかったと自信を持つことができた。ギターを始めようとするきっかけと、その目標の設定の仕方の話です。テレビの音楽番組とか、バンドのライブに行って良かったとか、DVDを観てかっこ良いと感じて、オレもギター弾きたいと思うんじゃないかと思います。で、ここで言いたいのは、かっこよく弾きたい、ギターがうまくなりたい、あんなに弾けたらかっこいいなあ。。。なんて思ってスタートしても途中でやめてしまうよ。という話。ギターが上手くなりたい。って中途半端であいまいな言葉ですよね。どこが上手くてどこが下手か?人それぞれだし、今俺は上手くなったのか?といつも考えるようになって、よしもっと練習しよう。というふうに気合を入れるが、継続できないってことは、ギター初心者では、あるあるなんです。弦は硬いし指は痛いし、何でこんなつらいことやってるんだ?と、ちょっとでも頭をかすめたら終わりです。このYouTubeの人も言っていたし、オレも同じなんだけど、この曲を弾けるようになりたい。このリフを弾けるようになりたい。このソロの速弾きをコピーしたい。というような具体的な目標をもつことが大事。そして、その曲を弾いていて楽しいと感じないと継続しない。俺がギターに触れたのはアコースティック。当時、アコギとかそういう系の歌が流行っていて、長渕剛の順子を一生懸命弾いた。なぜ順子の曲を選んだのか?その理由はコードが弾きやすかったから。何のコードかは忘れたが、他の曲は、自分でできそうにないコードがあって、ちょうど順子は、頑張ればできそうなレベルであった。だから根気強く何度も弾いた。正直、長渕剛の順子という曲はそれほど好きじゃなかった。だけど、この1曲をどうしても弾きたい。情熱ですよ。楽譜なんか読めないし、コードでAmと言われても、ドミソとか何の音かは知らん。だけど、その形だけを真似し追究して、やっとなんとか弾けるようになった。あっ今思い出した。順子の曲を選んだのは、コードチェンジが速くなる部分がなかったという理由もあったかも知れない。コードを弾くと、その音と歌詞の音ようするにメロディーが響くわけです。一般的に簡単に言えば和音です。この和音の響きがとても自分の耳に入ると、うれしく楽しくなる。それが原点だった。その時ローコードだけだったので、ジャープとかフラットが入ると、かっこ良くてもあきらめるしかなかった。あとでカポタスト付けた時もあったが、それでもローコードでは対応できず、次にハイコードへ移っていく。またそこで目先の課題に悩まされる。ハイコードのコードチェンジが遅いんですね。左手が曲の拍数について行けない。なので速くフレットを押さえる努力をするわけです。そのときそのときの目先の具体的な目標を1歩1歩クリアしていくと、徐々に進化していくわけですよね。目標が具体的で、すこし頑張れば手が届きそうな目標を設定する。これがミソなんです。趣味でも仕事でも何でも同じです。次にこれをやりたい。とどんどん貪欲に追及していくわけです。私はギターソロとか速弾きとかは正直好きじゃないんですね。技術が高いのと心地よいのは別なんです。なので私はソロのように弦を1本1本弾く目標は設定していません。なので弾けません。弾けないからと言って別に何も感じません。確かにハイスペックな技術はすごいので、できる人は尊敬しますが真似しようと思わない。ということです。自分とは別の世界の人なんだと思っているのでイヤとか悔しいとか何も感じません。ミズナガという後輩がいまして、ギター上手いんです。ソロとかバンバン弾けます。その人はコードだけだと、途切れ途切れになるからイヤだと言っていた。その人はそう感じるだけで、俺はそう思わない。それだけのことです。何を言いたかったかと言うと、この曲を弾きたい。とかこのコードを弾きたいとか、目の前の具体的な小さな目標を設定する。そして、絶対に弾けるようになりたいという熱意ですね。熱意がないとギターという楽器は継続しません。絶対に継続しない楽器です。

2019年04月14日(日)(Sun.)
今回はまた別の話。秀吉は墨俣一夜城の話や四国大返しなど、とんでもない仕事をする。戦はそこそこ強いが、経済力がバックにあるから兵を集める、鉄砲を買えるというお金を儲ける方が重要であり、戦はその次のように思う。で、墨俣一夜城などの話に戻して、秀吉の脳みその中は、結局城を建てればよい。他人と同じ事をしていたのではダメ。という2点がポイントとなると思う。ゴールが一緒ならば、何をしてもよい。これはオレ自身もいつも思います。ゴールが同じであれば仕事のやり方は自分で決めたいという気持ちが強いんですね。ただ自分には秀吉のように、ちゃんと人間関係を構築しないままやることがダメな面だと思う。ああ、言い換えると秀吉は、ずる賢いやりかたで、味方にならざるを得ないやりかたとするというのが正しいかも。とにかく外堀を確実に埋めて、このまま行っても大丈夫でるという状態までもっていく。オレは、外堀を埋めるのが下手。そこが大きい。その部分が出世できるか、できないかに響くと思う。四国大返しも他人と同じ事をしていては、先に出られない。だから他人の思いつかないことをやる。次に急に思いついたので書く。太平洋戦争後の時代は、一生懸命働いて会社で出世して生活を豊かにするというのが主流であった。趣味をもたず仕事で出世すれば良い人。出世できないヤツはダメ人間。という価値観である。で、今平成が終わり次の世代に変化していく。不況だし若者は就職できないし、できたとしても給料は上がらない。ボーナスもらえない。という時代である。そういう人が太平洋戦争後の価値観を持てるはずもなく、じゃあ、何をするの?というと、SNSに投稿してイイネをもらい。他人に認められたい。視聴回数を上げたい。それが昔の人の出世欲と似ているように思う。なので過激な動画を投稿して、迷惑をかけたりする。今自分が思うのは、他人はあんたをそれほど気にしていない。だからイイネをたくさんもらおうとする事が不自然である。と言いたい。オレも含めて世の中人口が多すぎて、あまり個人を深く見る余裕がない。だから自分ファーストになっている人ほど痛い。どうせ道端の雑草と同じ身分なのに、そんなに自分がかわいいんですか。みたいに思う。

2019年04月21日(日)(Sun.)
今日ボヘミアンラプソディーを見た。QUEENは有名だし、ヒットした曲はチョコチョコ聞くことはあったが、バンドの歴史は初めて知った。これを見て思うのは、フレディーマーキュリーが自分達の作った曲が好き。基本自分が作った曲が好きであり、さらに周囲の人やお客さんがきっと喜んでくれる。自分を信じ、お客さんを信じて信念を曲げずに貫いていけた。その事が成功につながるので、みなさん夢を信じ自分を信じ、周りを信じ、突っ走る事が大切であるというのが根本にあると思う。しかしフレディーマーキュリーは才能があったからできたと言う人もいるかも知れない。人間には運もあるし、いろいろな環境条件もあるのでわからないが、途中で妥協してやめるのはやはり凡人。このまま突き進んで良いのか?やっぱり不安になる。6分の長い曲を採用するしないでもめて、会社との契約を破棄する。それも凡人がやれば無謀な事である。とにかくQUEENかっこいい。世界のロック史に名を刻む大バンドだなと改めて考えさせられ、認識もした。バンドの人数は多い方が良いみたいなイメージを子どもの頃に持っていた。Aさんが曲を作り、Bさんが曲を作り、回転させれば良いし、キーボード、サックス、トランペットとか楽器が多ければ多い方が曲の音の厚みが出て良いのではないか?と思っていた。しかし現実は違う。4人という最小構成で最大の効果を出す。これがバンドのだいご味なんだなあと改めて思った。

2019年04月27日(土) (Sat.)
三木大雲さんの怪談好きというのもあって、たまたま三木大雲さんの仏教入門みたいな解説動画を見た。まず大前提として、仏教では天上天下唯我独尊というものがあり、これを理解・認識しないと先へ進めないと言っていた。お釈迦様が生まれて7歩歩いて、この言葉を言ったと伝えられているそうです。簡単に言うと世の中、地球上、全宇宙さらに宇宙の外も全部含めて、Aさんという人は、ここに1人しかいない。Aさんは実は、1500年前にもいました。ということは絶対にない。というもの。さすがに、それは信じるしかないなあと思う。空間とか時空とか、とにかくすべてのもの超えてAさんは唯一1人だけ存在する。それは目の前の事実であるから、認めざるを得ない。仮に、歴史の登場人物、坂本龍馬が好きです。という人がいて、その人の過去を遡って調べたら、実は坂本龍馬でした。ということもある。だけど、それはAさんが大昔に存在したというものとは違う。確かにそうだよなあ。でその次、人間は、しゅじょう衆生憐れむがゆえに生まれてきた。と言っている。これを簡単に言うと、人は何かをやって誰かの役に立つために生まれてきた。そうです。政治家になるとか世界を動かすすごい人というのではなく、小さい事でも何でも良い。何をやるかは人それぞれなので、何でも良い。それが誰かのためになる、誰かを楽しませたり楽をさせたり、何かを実行する。ためにこの世に来たんだと言う。それを言われたら、過去に書いて来たここのグチのような文章のどこかに長文を書いたのでそっちを見て欲しいのだが、オヤジとオフクロにものを言いたい。何をやるかは人それぞれ、その人の得意分野がある。その得意分野を仕事にして、世の中のために働く。仏教ではマジメに働くことが美徳とされる。ナマケモノは悪とされる。オレは決してナマケていたわけではないが、ヤツラのゴリ押しによって強制的に進路を決定され、違和感を感じながら生きてきて、やっぱ、ここで自分はこの道に来るべきではなかった。自分の不得意な道にあえて入ってきて、自分自身で自滅したという良い事例である。おかしいなあと思いながらも、自分を殺して親に従ったこのバカ正直な自分を恨み親を恨んでいます。この部分は過去の長文を読んでね。なので、何が言いたいのか?というと、人はひとそれぞれ得意分野があるので、仕事に上も下もない。必要ない職業なんてない。職業選択の自由があるはずなのだが、一番近くにいる親族、親に介入されたというのが一番痛い。仏教の精神から言えば、親は悪を押し付けたことになる。職業を差別化し、あれにはなるな。こういう職業に就け。ここで仏教の精神に反している親の脳みその浅はかさを、声を大にして言いたい。こういう偏屈な親に育てられたバカ正直なオレという人物は、仏教の正しいレールからはみ出ているため、まともにゴールへ辿り着けるはずがなかったんだと、今認識しその考えが正しかったと言いたい。お前ら本当に余計なことをしてくれたな。と言いたい。で、次に自分が考えさせられたことは、自分が誰かのために何かをするために生まれてきた。じゃあ何?と問いかけた時、それは自分の3人の家族のため、家内と子どものためなんだろうなあ、と思うようになった。自分の生きる最小単位である3人という枠を認識する。それができないヤツには、5人10人100人の集団のために何かをやるのは絶対に無理。まず第一段階は3人。3人をなんとか、ある程度のレベルに達することだけを考える。目の前のタスクだけを、ひとつひとつ実行する。単純バカで良いので、その考えその行動に集中することが大事。周囲の雑音を聞いていると判断が狂うので、なるべく聞かない。オレは親のレールにはまった暗い過去があるので、なるべく周囲の声は聞かないことにする。ここで話題転換。小林よしのりさんの戦争論なんとかという本があります。もうだいぶ昔に書かれた。このページを読んでいる人はわかるが、オレは戦争賛成派である。発売当時、戦争に関する本なので本気で読みたいと思った。しかし結構高かった。古本屋にも半額くらいで出ていたが、それでもなあ?という感じでイマイチ手を出すタイミングを失なった感もあり、ズルズル来た。今回、動画仕立てのものを発見し見てみた。この動画は著作権とかどうなるんだろう?と疑問もあったが、それは別の話にして、とりあえず動画を見た。最初に結論を言えば、買わない方が正解であった。著者の気持ちも理解できるし、全部本当の事だとは思うが、極端な面もある。戦争賛成にしても戦争反対にしても、その論調がどちらも極端なので、自分はどっちでもない。A派でもないB派でもない、しかし戦争賛成派のC派であると言いたい。で、今回考えさせられたことは、地球上の白人が有色人種を植民地化し奴隷にして来たという事実。アフリカの奴隷売買とか、イギリスをはじめ、ヨーロッパの国がどんどん植民地を拡大し、インドとかどんどん東に来て、とうとう一番アジアの東の日本まで影響が及んできた。イギリスが植民地化した国は、第二次世界大戦後、英語を話せる国になっている。だけど、その終点である日本は、いろいろ反発して戦争を始めたので植民地化にはなっていない。なので今も、日本人は英語が不得意な人種なんだなあと感じる。東南アジアの国は母国語は当たり前で、プラス英語が話せる。英語力は今の世界情勢ではアドバンテージになる。アメリカも原住民インディアンを近代兵器を使って追いやったし、オーストラリアとかニュージーランドとか、原住民がいたわけで、原住民を追いやる歴史なんですね。なので、最初に戻るが、白人の世界だったのに、有色人種として唯一日本だけが、独自の兵器を開発しアジアで一発、アメリカに売られたケンカを買ったわけです。日本人は猿と人間の混在した低レベルの存在であるという意味でjapと呼ばれていたそうです。初めて聞きましたが、たぶん本当なんだと思います。japという言葉は知っていましたが、それが、人間的に劣っているという猿レベルの野蛮な人種という差別用語という、そこまで強い意味だとは知りませんでした。ルーズベルト大統領もそういう差別演説を好んで繰り返したそうです。ドイツは戦争に負けたけれど政治には介入せず。ドイツ国民は最初は良い人だったのだが、ヒトラーに騙された。だからドイツ人は良い人。とされているそうです。日本人は、野蛮なので徹底的に壊滅させなければいけない。という風潮があったんだそうです。これは本当かも知れないが誇張もあるかもね。で、このへんで、自分の考えを書きます。有色人種の中で唯一、自国の兵器を開発し白人に対する反撃に撃って出た。反撃というのは経済制裁への反撃ね。そこはものすごく評価してもよかったんじゃないかなあと思う。なんでもかんでも白人の言う通りにはさせない。大東亜共栄圏というお題目は正論と言えば正論。ただし、過去に書いたように、ハルハ河の戦いから日中戦争、太平洋戦争に至る軍部の日本人の弱点である、あいまいさを最大限に強調したゴリ押し作戦が、モロ裏目に出た。というのは完全に反省点であるが、いま、平成が終わり令和という元号が変わろうとしている時でも、あいまいな関係を大切にするあまりに、世界で取り残されている感が強い。たぶん今後100年経過しても変わってないんだろうなと思う。前らの好き勝手にはざせないぞ、という気持ちと、自分自身、日本国を愛する気持ちが強過ぎて、なんというんですかねえ。甘い判断、甘い評価になっちゃうんじゃないかなあ?と思います。ただ、こんなことを言ったところで世の中変わらないので、まあボチボチやっていくしかないんですねえ。

2019年05月02日木曜日 (Thu.)
いまさらなんですが、このページの文章はなぜ、改行しないのか?見やすく段落等をつけないのか?その解答は、HTMLの改行タグをいちいち入れて、文章をキレイに見せるのが大変だからです。読者には読みやすいかも知れないが、書くことをメインにしているため、なるべく書く負担を減らしたい。なので、改行タグの位置などを吟味していると、それなりのエネルギーと時間を消費する。なので、ここは生テキストを書くことに徹する。話題転換。平成から令和に元号が変わった。世の中はお祝いなどで騒いでいる。新しい時代が来た。と大騒ぎをしている。新しい時代って何だ?元号と時代は関係ないと思うんですよねえ。大昔、西暦1999年の12月の師走で、とうとう明日が2000年という節目だ。と思い、ワクワクするような興味深い感じもあったが、元旦になったからと言って、2000年という実感は何もなかった。昨日までの1990年代とまったく変わらない朝が来た。そして元日の1日も終わっていく。世の中大騒ぎしているんだけど、何も変わらないという結構なショックというか、何もないという大きなインパクトがオレの心に残った。なので日本の元号が変わったくらいでは、何も行動を起こす気になれない。半蔵門近くに大勢の人が集まっていて、車で通過する天皇、皇后をわざわざ地方から見に来る人もいた。自分に直接関係ない、自分の身に何も起こらない、ああいうイベントは劇的にドライに受け止めてしまう傾向がある。話題転換。このシリーズのページで思いきり親の事について文句を書いてきた。しかし、ちょっとここで少し考えを変えて見たい。見る方向を正面からではなく、ナナメ前方から見てみたいと思う。だからと言って、親について尊敬するとか褒める文章に変更するものではない。読み進めれば理解できると思う。それでは書いてみる。自分自身も怪しいウソYouTubeバーなので、動画サイトはいつも見る。怪談好きなためいろいろ聞く。少し前は稲川淳二さんが王者であり、その他の人はあまり目立っていなかった。しかし、ネットが普及してくると、個人で怪談を編集してアップする人、自分で語る人などかなり大勢の人数が集まる、メジャーな一種の趣味のカテゴリになったと思う。そういう話を聞いて、先日ハッ!?とさせられる話を聞いた。動画サイトが世の中のために役立っているという証拠なのかも知れない。何かと言うと、たぶん関西の方だと思います。都市伝説で赤いマントいらんかねー。という人が公衆トイレに現われるというもの。その時の正しい対処法というのは、いりません。とキッパリ断ること。黙っていたら欲しいと勘違いされかねない。そして、欲しいなんて絶対に言ってはけいない。というもの。その語っている人の大学だっけ?の先輩だか友人だったか?が、オレはそんなの信じない。マントが欲しいと言ってみます。とみんなの前で豪語した。話を短くするために結論を言うと、実際に公衆トイレに入り、その赤いマントの質問をしてきたそう。女性の声だったらしい。で、自分はいつも言っているように、欲しいと答えた。そのあと、仲間うちの数名に欲しいと回答したが、何も起こらないじゃん。みたいな事を言った。実際に何も起こらなかった。で、その後何十年が過ぎ、50歳だか60歳だか?年齢は忘れたが、その豪語した人は死んだそうだ。その人の家に行き、奥さんから当時亡くなった場面の説明を受けたそう。で、その時、豪語した人が最後に口にしたのは、あいつが来た。みたいな事を言ったそう。パジャマが血に染まり、背中まで血が広がり、それがマントということになる。霊だとかこの世ではない、何かわからないものは、人間とは時間軸が違うらしい。何十年後にウワサ通りというか、都市伝説通りの結末が待っている。という話である。オレもこの豪語した人と似た性格である。今は全然違う。ナメるどころか、今は恐怖さえ感じるので、たたりなど失礼にあたらないようにしている。私は子どもの頃、小学校3年4年くらいですかねえ。一番ナメていたように思います。関東なので都市伝説と言えば口裂け女です。その当時もめちゃめちゃ興味があった。そして、興味があるのだが、そんなの常識で考えれば起こるわけないし、こっくりさんとか霊の仕業とか、ようは説明できないですよね。説明できない事は起きるはずがない。教科書に書いていない、先生が教えることのみが正しい。教科書にないものはただの空想・仮想であると信じていた。で、ここで、今日書き始めた根幹・根本についての話になります。そのナメていた俺に対し、神なのか?その何ものかが、何十年後の俺に向けて刺客を放った。のではないか?という仮説を思いついた。刺客とは殺し屋ですが、瞬間的に殺さず、長期間に渡ってその影響を少しずつ効果をあげていくようなやり方。つまり、無能な親を使ってオレを教育し、必ず人生に失敗する方向へと誘導する。そして、その効果が年齢を重ねるごとに強烈になり、一部上場企業を辞め、だんだん人生について追い込まれ、疲弊・疲労していく。それが、小学生の時代からのツケというんでしょうかねえ。一気に殺すのは簡単なんだけど、長期間、細くて長い蕎麦のように、切れずに最後までつきまとう。そんな風に今思いました。こういう巧妙な手口で来られたら、さすがに抵抗する力もなく、先方の思うツボです。さすがに、この仮説が本当ならば、非常に厳しいなあと思っています。今日はこんなところです。













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