独り言のページ05
何かに対して、文句というか世の中の矛盾みたいなものを単に書いていこうかなと。
mixiの日記には、かなり偏った内容も書いていて、あれが本音なのですが、こっちにも書いてみたいなあと思いました。
どこに書いても基本タダなので、徒然なるままにという感じです。
独り言のページを始めたのが、2018年7月。まず、生きている事、生きていく事、世の中の矛盾というか、理不尽というか、何でこうなっているのだろうか?
生きて行くことに抵抗感があり、中途半端じゃなくて本気で悩んでいるので書いてみます。
2018年12月16日(日)
海上自衛隊の護衛艦いずもが空母化されるという報道を見て感じたこと。まず、日頃の疑問を書きます。 ヘリ空母ではなく名称は護衛艦。 海上自衛隊は、なんでもかんでも護衛艦。 いったい、何を護衛するのか? 旗艦である戦艦を護衛するという意味が正しい使い方だと思います。 海上自衛隊の駆逐艦タイプも護衛艦。 駆逐艦も護衛艦と言っても間違いではないですが。 いろいろ調べましたが、世界で明確なルールがないそうです。 名前をつけるのは勝手。 じゃあ、海上自衛隊の護衛艦は、米軍の軍用艦を護衛するのか?みたいに捉えてしまいますよね。 そう解釈されても仕方ないかなあ? と日頃、思っています。 で、本題。 いずもは、UHー60を6機搭載できるそうです。 でかいです。 完成した甲板は、ヘリの離着陸用の強度で設計されています。 で、 甲板を改修すれば、Fー35が搭載可能と前からウワサになっていました。 Fー35B型のみの話ね。 下に噴射する、ジェットの熱とかそういうのに耐えられるように。 で、今回、自民党で対応できるように改修可能という結論になったというわけです。 あのね、少し前、 航空自衛隊がこの前、Fー35買ったんです。 三沢基地だったか、どこかにいますが、Fー35A型なんですよ。 ドッグファイトとか、空戦性能を優先すると、A型になるので間違いではないです。 で、 A型を持っている航空自衛隊のFー35を搭載できないのであれば、いずもの改修は、なぜ実行されるのか? 答えは、米軍のFー35B型を乗せるからであります。 ニュースを聞いている一般市民の方は、その事たぶん知らないと思います。 戦闘機を搭載できるように改修するのは、けしからん、と野党が怒っています。 とニュースを聞いて、ああそうなんだ。 で終わってしまうのは、非常にもったいない。 で、 話題は、次に行きまして。 じゃあ、いずもに自衛隊戦闘機を乗せることは? と考えると、おのずと、海上自衛隊の戦闘機Fー35B型を海上自衛隊機として買うという選択になる。 話は、ズレるが ハリアーという垂直離着陸の戦闘機があるんですが、もう20年か30年前とか大昔から開発され実戦配備されて運用しています。当時、ハリアーが出て、垂直離着陸?? と衝撃を受けたものです。で、話題を戻して。 というわけで、海上自衛隊に艦上戦闘機が誕生するという画期的な時代になるということを言いたい。 海上自衛隊に今、艦載機がないわけで、あっ! 空母に着艦可能な、Fー4ファントムがもうすぐ退役します。 自衛隊が保有する、唯一、着艦フックがある戦闘機です。 ちなみに航空自衛隊機です。 この話は長くなるので、このへんで、話しを戻します。 で、 海上自衛隊の艦載機乗りのパイロットが誕生するわけです。 アメリカ海軍のパイロットは、FA-18乗りとか、昔トムクルーズで有名になったF-14とかあります。 米軍の海軍パイロットは当たり前にいます。 海上自衛隊の艦上戦闘機のパイロットが誕生するということは、歴史上ものすごい大改革なんじゃないかなあと思います。 太平洋戦争時に、あの世界的有名な零式艦上戦闘機のパイロットに匹敵する、なんというんですかね、日本の伝統芸ですわ。 空母を有効活用し、海に出て行って、戦闘するというのは、そもそも日本がアイディアを出して、運用し始めた。 日本のお家芸、日本の伝統芸なんじゃないかなあ?と思うわけです。 仮に自分が自衛官で海上自衛隊初の艦上戦闘機乗りになったとしたら、光栄というか感慨深いというか、日本海軍の誇りというか、栄誉だと思います。 朝、このニュースを見て、ここまで自分の頭の中にいろいろなことがわき起こって、これは、ものすごいニュースだなという印象を受けた。 話は、ズレます。 戦争やりません、という憲法を作ったのは、アメリカですよね。でも、今、アメリカが日本に対して戦争を可能にしようとして、いろいろなアプローチをしていて、安倍さんもそのレールに乗って、進めようとしています。 戦争やりません、という憲法を作ったアメリカが戦争をするように仕掛けてくるのは、おかしいなあ? トルーマン大統領は、日本の戦争放棄の憲法を作ったのは間違いであったと語っている。私は戦争はどんどんやってもらいたい派なので、どんどんやってもらいたい。 しかし、あれですよ。 太平洋戦争の指導者・大本営みたいに無責任に戦線拡大し兵站が疲弊するドロ沼の戦いだけはかんべんしてください。 ピンポイントの目的を達成する戦争は、どんどんやってほしいい。
2018年12月16日(日)
今日は日曜日なので平日に時間が取れない分、まとめて書いている。この話題は文句かなあ。クレームですね。テレビニュースで、パラリンピックか?とにかく障害者のバスケです。車いすのバスケ。日本人の全員が知っていると思いますが、車いすを手で動かして、ボールを取ってゴールへ投げる。みんな知っているそういうゲーム。前から思っていたのだが、このルールおかしいよね。車いすで相手の車いすに激突するんですね。アメリカンフットボールのルール適用しているんじゃないか?くらいの勢いで激突する。当たられた方は、横や後ろに吹っ飛ぶ。あれは格闘ゲームです。スポーツマンシップに則った純粋なスポーツじゃないです。普通のバスケは、相手のボールを取ろうとして、体に触ったらファール取られますよ。不可抗力みたいに、仕方ないというのを除いて、触ったらファール。障害者バスケは、ファールどころか、ボールを取るというより、相手を吹っ飛ばす方が優先されている。見ていて現実にそうなんですよ。これは、スポーツと呼べないし、パラリンピックの正式競技から外してもらいいたい。これはオレが言っていることがただしいと確信している。もうひとつ、パラリンピックは道具を使うので、より高級で高性能な道具を持っている者が勝つ。その例が走り幅跳びのなんちゃらという人が、健常者の幅跳びの距離を超えた。カーボンだか何だかで作られた驚異的な反発力で、人間のジャンプ力を大幅に超える。なので貧乏で高級素材を買えない人は、自然に負けることになります。道具の性能で勝ち負けが決まるって、おかしいですよね。これも世の中の流れで、金持ちがさらに有利になり、貧乏人はさらに不利になる。カーレースみたいにレグレーション決めて、違反したヤツは出られないというルールを作りたい。オレはそう思っている。たとえば、障害者バスケの車いすは、木で作れと。木だとすぐ壊れるから、相手に突進、突撃を繰り返しているとすぐ壊れる。ぶつかる頻度を調節する必要がある。そして、壊れたら交換できるのが1台まで。タイヤ交換みたいなもので、タイヤが消耗して前半に摩耗してきて、グリップが効かないんだけど、タイヤ交換1回やったからもうできないんだよね。みたいな。タイヤ摩耗メンテナンス。摩耗を温存しどこかでスパートをかける。その調整の面白みのだいご味もプラスされて、もう最高!この文章を書いて自分に酔ってきました。
2018年12月16日(日)
今日はさらに書きます。SNSで目立ちたがりの話。海外のPsychology of Well-Beingの記事Promoting Positive Affect through Smartphone Photographyによると、笑顔のセルフィーを毎日撮ったグループは自信が高まったり、心が落ち着くなど、心理的にポジティブな変化があった。セルフィーには自尊心を高めるなどのプラスの効果が期待。というweb記事があった。みんなの注目を浴びるために、バカみたいな過激なことをする連中もいる。確かにイイネをクリックしてもらえば嬉しい。しかし、イイネをクリックしてくれる前提で考えるから問題がある。そもそも自分のSNSなんか誰も見ないよね。と思い込んでいたところ、2人とか数人クリックしてくれるだけで嬉しい。そういう謙虚な心で接して欲しいと思っているが、謙虚じゃない人は大勢いる。世の中には暇な人がたくさんいて、炎上の手助けをしたり、いろんな人がいる。何を見ても個人の自由だが、大勢の人数が集中する炎上webにアクセスした時間はもったいないと俺は思うので、そういう流行SNSとか流行webサイトへはあまり近づかない。せいぜい正義感を振りかざして、がんばっていただければと思います。で、話がズレてしまって今回言いたかった結論から遠ざかってしまったので戻す。前にも書いたかも知れないが、あえて書く。私はYoutubeに動画をアップしている。理由は自己満足。その中でも最も自分への効果が高いのはギター演奏である。早弾きやソロは興味がない。プロのギタリストのように早弾きでヘビメタをやりたいとか、ハードロックをやりたいとは思わない。進行コードが自然で美しい流れになっていて、それを歪みのエッジの効いた音でなぞっていれば良い。それだけで満足。余は満足じゃ。その満足感を自分1人で聴いているだけではなく、webに公開することで全世界の人が見ることができる。実際にはほぼ誰も見ていないが、見る可能性もある。いつか見る。かも知れない。という少しの緊張感があり、やはり自宅弾きだけのパターンとはまったく違う。モチベーションやその他の事、仕事のやる気とか、一応死亡せずにダマシダマシ生存を継続していくというパワーが湧いてくる。それだけのために、ほぼ毎週アップしている。おかげで、今はCDの音を邪魔することなく、みんなで和気あいあいでバンドやってます感が出ていると思う。その瞬間だけは幸せであると本気で思う。
2018年12月18日(火)
前から思っていた事なんですが、今思い出したので今書きます。冬山に登山する登山家、または趣味で登る人もいるかも知れないのですが、山の上はマイナス何度で、ものすごい装備を持ち、テントやら何やら専門的な道具を持って登山する。素人が行ったら死亡確定。プロだとかプロに近い趣味の人だとしても、雪や風がどんどん襲ってきて、自然の力に負けて死亡する時もある。よくテレビのニュースで報道されていて、警察・消防が捜索しています。とアナウンサーが言う。あまりにも捜索が難航する時は自衛隊なども来て、大捜索隊を組織する。警察・消防・自衛隊の人は公務員だし、仕事なので命令を受けたら仕事を行う。しかし、何百人も投入して見つかりませんとか、死亡が確認されたという報道を後日聞くと、それだけのパワーをかけて公務員を導入してやるべきなのか?若干疑問があったんです。自分の趣味とか、お楽しみのために極寒の山に挑戦するわけですので、死亡したら誰が悪い?と言われると自分自身になる。死亡する可能性がある趣味を持つというのは、さすがに、いかがなものだろうか?それで、以下のような事を考えた。自分のオヤジ、オフクロは過保護と言えば聞こえが良いが、まあ、親の希望するレールの上を進ませたくて仕方がない人なんですね。自分が自由にできる人形みたいに思っているとしか思えない。その人、1人の人間という存在があり、独立した自我・個性があることを断固認めない。今、戦場カメラマンというキーワードが流行していると思います。オレも今でも戦場カメラマンにあこがれます。チャンスをくれるのなら、すぐにでも行きたい。で、仮に高校生の時に親に言ったとしたら、死ぬからダメというでしょうね。カメラマンの学校に行きたいと言っても、戦争の撮影するなら許さん!と言われると思います。だけど、戦争って死ぬか生きるかのギリギリの攻防ですよね。兵士もそうですが、民間人も多数巻き込まれます。その生死の境目の一瞬のドラマを、絵を、空間を1枚の写真で切り抜く。新聞紙を貼って作るスクラップブックのようなものだと思っています。その切り抜き方がキレイとか感動を与える何かがあれば、そこに、兵士や家族やいろいろな人の人生が凝縮されていて、それが、見る人の目に自然に訴えかけるものがある。そういう仕事ってかっこいいですよね。自分も命がけで、現場に生きる人も命がけで必死になっている姿。。毎月生活していくだけでヒーヒー状態で、海外に行くだけのお金すらない。本当に残念ですが、今お金もないし年齢を取り過ぎたというのもあって、冒険はできないんですが、自分が子どもの頃、ベトナム戦争中でした。その事は自宅ではまったく話題にならず、今頃になって、あの時知っていたら、行く勇気をもらえたかも?と思います。死亡するからダメですと、禁止することの愚かさを言いたかったので、今日この文章を書いた。何でもかんでも頭ごなしに禁止するのはおかしい。思想の自由だし、職業選択の自由だし、表現の自由である。この自由は小学生の時に学校で習うが、卒業し、大人になると変な色メガネで、あれはダメ。これはダメと言いまくる。頭が賢くなったのではなく、偏見が強力に作用していて自由に動けなくなった。というヘンテコリンな大人を作ってしまう。ヘンテコリンな大人を作るのが教育であり、社会だとしたら、さすがに、ちゃんちゃらおかしいよね。と思う。小学生の時に、これも学んだ。作用と反作用。作用する力があれば、それの反対側への力があって、物がつりあっている。なので反作用、反対の力があるのは、世の中当たり前のはずなんですわ。その当たり前のはず、というのを、なかった事にするような強力な、変な偏見というか、わけがわからない考えって、どうなんですかね?今日はこのへんにする。で、ちょっと追加する。人生打たれ強い方が良い。とよく言われる。俺は忍耐強いと思う。悪い言い方をすれば、忍耐強いばっかりに、自分が壊れる・破壊される・後戻りできない・K点を過ぎるまで我慢する。K点を過ぎてから、ダメだと気づく。世の中の人は、これを忍耐強くないと判断するようである。世の中一般的な市民は過酷な仕事や状況に置かれたことがないなあと、最近気づいた。で、何百回も何千回も繰り返し打たれ、苦しみ、何度もK点を越えて、無理だとわかることに周りは気づかない。だって経験してないんだから、共有できないでしょ。何か知らないけれど、心理的に共有できない人には、想像して、その人の身になって考えてあげましょうね。と学校の先生とか親に教えられたはずなのだが、それを実行している人はかなり少ない。この人はいい人だなあ、他人の事をよく考えてくれるなあ、と本気で思ったのは、ほんの2~3人しかいない。おひとよしなものだから世の中、冷たいものだと気づくのがさらに遅すぎた。世の中に期待してはいけないと本気で思ったのは2~3年前。人生で気づくのが遅すぎ。遅くしたのは親の教育とかなので、以前の独り言に書いた事になる。で、いつもこのアニメを例にしているので書く。フランダースの犬というアニメがあって、主人公のネロは、イジメやいろいろな苦労をするのだが、一生懸命に頑張る。いつも明るく前向きに生きる。いつか神様はこの僕を認めてくれる。そして、いつか僕にも幸せが来る。好きな絵が描ける。というものすごくパワフルで、教科書に書いたような見本のような人である。しかし最終回。教会の絵の前で、パトラッシュと一緒にいる場面。パトラッシュ、僕もう疲れたよ。というセリフがある。あの前向きでがんばり屋のネロが、疲れた?と子ども心に小さなショックを受けた。どんなに努力し頑張っても報われないものもある。それが、通常の何倍も生きていくエネルギーがあるネロでさえも、ここであきらめてしまう。あのネロがあきらめてしまうくらいの過酷な人生というものを、今後自分は乗り越えて行けるのだろうか?本気で心配し不安になった。それが今の現実である。自分は自分の将来を読むことができたなあ、なんて自己満足に浸るくらいしか楽しみがないというのを理解して欲しいのだが、まあ他人には期待しないと学んだばかりなので、何も期待しない。人生は冷たい仕打ちしかしない。冷たい仕打ちに向かって、逆風にさらされて前に進めない。だったら風に流されて、一般人と同じルートを行くのか?それもできない。人生って本当に何ですかね。仏教とか宗教とかでよく言いますよね。神様とかお釈迦様は、生きる意味があって、この世に存在する。とか、世の名に貢献すえるため。何かしら世の中の役に立っているから生きる意味はある。とか。まあ宗教によって言い方は違うし、全部の宗教を勉強したわけでもない。だけど、がんばって生きれば極楽浄土へ行けるとか。現世で頑張って生きましょう。といいますよね。だけど、昨日かな?HEAD SPEAKERの曲を聴いてㇵッとした。人生の意味は後付けという言葉を聴いて思いましたね。後付け論の方が正しいんじゃないか?って。あらかじめ決まっていたんじゃなくて、現状の状況から判断して、その後付けの意味を自分で探す。探せないとたぶんその人は、人生が終わってしまうんだろうな。
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